ラジオを聴き始めたのは小学校6年生くらいだ。うちにSANYOのラジカセがあった。それでラジオを聞いていた(今の若い世代のYouTube とか TikTokみたいなもの)。
本格的に聴くようになったのは中学生になってから(1975年〜)。それこそクラス中、みんなラジオを聞いていた。TBSラジオは小島一慶、林美雄、文化放送はみのもんた、土居まさる、中でも谷村新司の『セイヤング』の『暗い過去』というコーナーが人気で、次の朝はその話で盛り上がっていた。
ラジオを聴いているうちにハガキを出すようになった。リクエストハガキが読まれた。文化放送『セイヤング』月曜日、パーソナリティは落合恵子だ。といっても「●●中学のエンターテナー」さんというラジオネームだけ。リクエストした曲はAEROSMITHの“DRAW THE LINE”。
ちょうどその頃、「将来の夢」という作文で「大学で放送研究会に入ってアナウンサーになる」と書いて、友達の女の子に「また本間くん、でかいこといってるね」といわれたりした。
高校の頃は、よくエア・チェックをした。NHK FMの『サウンド・ストリート』とかね。大学時代は友達の女の子が出てた番組(FM大阪)があったんでそれをよく聴いていた。
社会人になると、さすがにラジオを聴くひまはなくなった(1988年〜)。仕事帰りにはよく飲みに行ってたし、家にいてもTVを見たり、ビデオで映画を見たりしていたのだ。
またラジオを聞きはじめたのは、編集者をやめてフリーになってから(1992年〜)。家で原稿を書いている時に聴くようになった(最初はJ-WAVEを流しっぱなし、みたいな感じ)。
またハガキやメールを出すようになった。そうすると、読まれはじめるのだ。TBSラジオ『伊集院光の日曜日の秘密基地』ではメールが読まれて5000円もらった(郵便局に現金化しに行ったはいいが、そのままカミさんの化粧水の支払い代金になった)。TBSラジオの鴻上尚史の番組で読まれたこともあったし、KBS京都の『キョートリアル』は5〜6回メールが読まれた。
TBSラジオ『木梨の会』では僕の歌が流れたり、ジングル(TBSではサウンドステッカーと呼ぶ)を数ヶ月OAで使ってくれたりした。今年になってからも、TBSラジオ『日曜天国』とか、ニッポン放送『うどうのらじお』でメールが読まれた。ニッポン放送『辛坊治郎ズーム』でも曲のリクエストメールが2回ほど読まれた。
本を出していると、今度はゲストで番組に呼ばれるようになった。TBSラジオ『荻上チキ・Session』がまだ夜放送している頃だ。生放送の直前、緊張して17回くらいトイレに行った。いざスタジオに入ってマイクの前に座ると、中学生の頃アナウンサーになりたかったことを思い出した。思ってれば叶うもんだな、と。TOKYO FM系の局にも呼ばれて喋ったしね。
ラジオでおれの作った音楽流してぇな、と思ってたら、のりさんがジングル気に入ってくれて、数ヶ月間流してくれたしね。本出してぇな、とも思ってたし。基本的にはトライ&エラーの連続なんだけどね。でもね、思ってれば叶う。